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競馬サロン

白井寿昭

2019/05/15 17:00

アカデミック連載『ダンスパートナー』(part3)

【第3章】「フランス遠征の真実」

・遠征計画のスタート

オーナーサイドからフランス遠征の打診を受けたのは、オークス制覇からしばらくたってのことだった。

牝馬限定のGI競走で、凱旋門賞の主要な前哨戦のひとつに位置付けられているヴェルメイユ賞。
このレースをまずは最大目標にする。
その後のことはヴェルメイユ賞の結果次第で…という話だった。

ダンスパートナーの受け入れ先、前哨戦の選択など、メニューのすべてを決めたのもオーナーサイド。
当時の私は、海外の血統やセールなどには詳しかったものの、海外競馬で戦うための知識と経験を持っていなかった。
結果、オーナーサイド主導の遠征に対し、首を縦に振ったわけだ。

受け入れ先として候補に挙がっていたのは、フランスの名門として知られるアンドレ・ファーブル厩舎。
当初は私も「いい選択だな」と思った。
しかし、彼は「進上金も含めたすべての収入を自分に」と。
このひと言で、彼との話は流れることになる。

フランスの賞金は、日本のそれと比較にならないほど安い。
オーナーサイドだけでなく、管理する私も名誉のみを求めての遠征。
私らはそれでも構わない。
しかし、帯同している厩務員にまで、2カ月も無収入の仕事をさせることはできなかった。

実際、厩務員組合でも「そういうことをするなら、社台グループの移動を禁止する」と問題視されることに。
結果、ダンスパートナーはファーブル厩舎ではなく、コリーヌ・バルブ厩舎で受け入れてもらうことになった。

この程度のことは些細なことだ──。
当時はそう思っていた。
しかし、わずかに狂ってしまった歯車が、のちに大きな影響を及ぼしていくことになる。

・敵の懐の中に

1995年7月25日。
美浦トレセンでの検疫を終え、ダンスパートナーはフランスへと旅立っていった。

長い輸送にも耐え、フランスでの状態もまずまず良好。
4頭立ての3番人気という低評価で挑んだ前哨戦のノネット賞だったが、結果はハナ差の2着。
「これなら」と本番のヴェルメイユ賞に向け、私は確かな手応えを感じる。

しかし、結果的にこの1戦が良くなった。

競馬後進国の日本から来たというだけでなく、ダンスパートナー自身が見栄えの良くない馬だったこともあったと思う。
実際、ノネット賞を走る前のダンスパートナーに対し、周囲の雰囲気は完全なノーマーク。
だが、ノネット賞の結果に「ちょっと違う馬が来ているぞ」という状況に、変化してしまった。
それは受け入れ先のバルブ厩舎も同様。
いや、最も大事な受け入れ厩舎の対応が、最も変わってしまったのだ。

バルブ厩舎にはフランスオークス馬のカーリング(のちに社台グループが購入し、ローエングリンの母となる)が在籍していた。
彼女の目標もダンスパートナーと同じヴェルメイユ賞。

自分の厩舎の最大の敵はこの馬かもしれない──。

彼女をライバルと認めたバルブ厩舎は、我々が厩舎に入り、ダンスパートナーに関与することを禁止するようになる。

私のスタッフはダンスパートナーに会うことも許されず、飼い葉を与えることさえも、我々の仕事ではなくなってしまった。
ダンスパートナーがどんな状況でいるのか?
それもわからない。

敵の懐に入ってしまったことが、この遠征のなによりの失敗だった。

・悔いの残る敗戦

前哨戦を使わず、ヴェルメイユ賞に直行すべきだったかもしれない──。
そう考えることが、現在でもある。

牡馬ならひと叩きは必要。
外国の競馬を経験することも財産になるだろう。
だが、ノネット賞がそうだったように、小柄なダンスパートナーは、いきなりの実戦でも、走れる可能性があった。
調整も自由にさせてもらえたかもしれない。

ヴェルメイユ賞は他馬のマークも厳しかった。
当時、日本によく来ていたオリビエ・ペリエ騎手。
彼は日本馬のレベルの高さを把握しており、ダンスパートナーが強敵であることを十分に理解していた。

直線入り口。
ギアを上げる瞬間にほんの少しだけ閉められてしまった。
もしも、あそこがスムーズだったなら…。
このレースの結果は6着。

ダンスパートナーのキャリアの中で、悔いの残る唯一のレース・ヴェルメイユ賞はこうして幕を閉じた。

【第4章】「新たなる挑戦」

・帰国初戦は菊花賞

海外遠征をするためのシステムが確立し、また日本馬の地位が向上したことにより、遠征先の待遇も格段に向上。
もちろん、輸送や慣れない環境への適応力など、馬自身が克服しなければならない問題が残っているとはいえ、日本とさほど変わらない状況に馬を置けることになった現在を羨ましく思うことがある。

なにせ、ダンスパートナーをフランスに送った1995年。
この基本的なことを、私たちはできなかったのだから。

ヴェルメイユ賞は6着。
フランス遠征から戻ったダンスパートナーの状態を確認した私は、秋の国内初戦に菊花賞を選択する。

オークスの勝ち時計が翌週に行われたダービーのそれよりも速かったことが理由のひとつ。
春の段階から菊花賞参戦を考えていたことは、すでに述べたとおりだ。
もうひとつの理由は「翌年からエリザベス女王杯が解放される」。
そんな噂を聞いたからだった。

「エリザベス女王杯は来年でも勝てる。菊花賞に出走できるのは3歳馬の今年のみです。今年は菊花賞に行きましょうよ」

オーナーサイドは私の意見を尊重し、菊花賞への出走を許可してくれた。
もちろん、この瞬間の私はガッツポーズ。
しかし、この決断により、私は必要のないプレッシャーを、自分で背負い込むことになってしまう。

「菊花賞は大事や。しかし、1年後のエリザベス女王杯。このレースだけはしっかりと勝たせないとあかんな」

菊花賞の結果は5着だった。
勝ち負けするところまでいかず、当初は失敗のように思われた挑戦だったが、優勝したマヤノトップガンの能力が、私の想像を超えていただけの話。
同馬は次走で古馬相手の有馬記念も制覇。
最終的にGIを5勝もする名馬となった。
相手が悪かったのだ。
実際にダービー馬のタヤスツヨシ(6着)には先着を果たし、それなりの面目は保ったと私は思っている。

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