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コラム

2012/03/27  齋藤 俊介「名馬列伝」

【名馬列伝】2年目武豊騎手・天才の名にふさわしい騎乗/88年サンケイ大阪杯

昨年はヒルノダムール(中央)がレコードタイムで快勝。改修後も大阪杯では好メンバーによるハイレベルな戦いが繰り広げられている。

改装前の阪神競馬場。

1980年代後半におけるサンケイ大阪杯(現・産経大阪杯)は、紛れもない一級のG2だった。

小回り2000mの後半6Fがほぼ間違いなく12.0前後の勝負になり、58キロ、59キロという斤量に耐えてこれを制する馬こそが、G1の器なのであった。小回り戦、短い直線といって逃げ馬が有利というわけでもなく、一見単調にも見える持続戦の中でも微妙な出し入れ、脚の残し方、使いどころが騎手の腕にかかっていたのである。特に、レベルが均衡した激戦の中では騎手技量が勝敗に直結し、騎手達の腕比べとしても比類のないレースであるともいえただろう。

そんなサンケイ大阪杯で1980年代半ばにピカイチの成績を上げてきたのが天才・田原成貴騎手である。ステートジャガー、ニシノライデンで2勝、スダホーク(勝ち馬はサクラユタカオー、同年秋に天皇賞・秋をレコード勝ち)とロンググレイス(勝ち馬はカツラギエース、同年秋にジャパンC勝ち)でそれぞれ2着。ステートジャガーは3冠馬ミスターシービーを撃破してのものだし、ニシノライデンは阪神大賞典で3秒以上離されて負けた直後のレース。それをテン乗りで春天皇賞馬クシロキング、4歳時に神戸新聞杯、京都新聞杯を連勝して古馬となったタケノコマヨシという中距離のスペシャリストを封じ切って見せていた。

1988年のサンケイ大阪杯は、その田原騎手が2冠牝馬マックスビューティに騎乗。圧倒的な1人気に支持されたことは、まさに言うまでもない状況だった。

マックスビューティは8連勝後の1987年エリザベス女王杯で2着。有馬記念は「使う気はなかったが、JRAから『ファンが』と言われては」と伊藤雄二調教師は後に使う判断をした自身に悔いを残すこと(10着)となった。

しかし、そこから陣営は切り替えてマックスビューティを仕上げなおしていく。年明け緒戦にマイラーズCを選択。逃げたミスターボーイ・村本善之騎手と2番手セントシーザー・河内洋騎手は、対マックスともいえる、行ったままの辛抱勝負となる競馬につくりあげた。このレースでマックスビューティは後方から捲り、この2頭に並ばんとして3着。その脚には、確かに復活の予兆を誰もが感じたのである。

そして、スタートがきられると、レースは例年通りの展開となっていった。4人気トウショウレオ・田島良保騎手がゆったりと先手を取る。祖母に名牝ソシアルバタフライ、父は米2冠馬のシャトーゲイ。平坦小回りでの先行力、スピードは抜群で、ここは小倉大賞典連覇を達成してからのステップ。これを追って2番手につけたのが2人気ランドヒリュウ。7歳の古豪だが、膝に爆弾を抱えて毎年のように半年以上の休養を余儀なくされていた。前年秋の京都大賞典を取り消し後となるこの春も半年を経ての復帰。仁川S(当時はオープン特別)を叩いて中1週でここへ駒を進めてきていた。ハイレベルと名高い1985年ダービーで28頭立ての23番。後方22番手から捲り上げ、直線で1度は先頭に立った姿を忘れる者はまだいなかった。

主戦でもある村本騎手が菊花賞馬メジロデュレンに、前走手綱をとった河内騎手が2人気のゴールドシチーに騎乗したことから、この日は所属である塩村克己騎手に手綱が託されていた。

そして、前年、新人最多勝利騎手となった武豊騎手(69勝)に続く33勝をあげた気鋭は、堂々と折り合わせて競馬の主導権を取ろうと周囲を注意深く見守っていた。

13.2 - 10.9 - 12.7 - 12.8

とゆったりした前半。この流れに折り合いをかいて爆発してしまったのが、なんと1人気のマックスビューティ。田原騎手すら制御しきれず、思うままに走り出してしまったのである。

田原騎手が懸命に3番手でなだめてようとしていく最中、塩村騎手とランドヒリュウがこれを受けてスタート。トウショウレオと田島良騎手も先頭を譲らず、ペースは典型的な大阪杯の流れへと変わっていった。

12.0 - 12.1 - 11.8 - 12.0 - 12.1

とイーブンペースでおむすび型のコーナーを回っていく。マックスビューティが4コーナーで気力を失い後退していくと、ファンからの悲鳴が場内を切り裂いて青空に吸い込まれていった。マックスビューティの後方にいた3人気ゴールドシチー・河内、6人気スピードヒーロー・松永幹夫騎手にはいかにも絶好の展開となったようにも見える。

ここで、勝負に出て先行2頭を追った松永幹騎手、脚をまだ残そうとした河内騎手と選択がわかれたが、直線入り口でこの2頭が先行2騎に取りついた時、トウショウレオとランドヒリュウは示し合わせたように併せ馬でこの両馬を突き離していった。

先に出て動かし、ためてまた突き放す。

この2頭が戦略的勝利を得たといえるだろう。一騎打ちとなった併せ馬の中、並びかけていったランドヒリュウが優勢に競馬を進めて残り1F。

12.1と全く速度の衰えない2頭に急速に迫る蹄音があった。下がったスピードヒーローとゴールドシチーを捌き、短い直線で瞬く間に喰らいついてきたのが、7人気フレッシュボイスと武豊騎手であった。

田原騎手とのコンビで最後方一気を常とする個性派フレッシュボイスだったが、この日の田原騎手はマックスビューティに騎乗。テン乗りとなってこの馬を任されることになった武豊騎手は、中団のイン7、8番手でじっと脚を蓄えていたのである。

比類ない切れ味。騎乗者が誰もが称えるその脚が使えるのは1F。いかにためて、いつ使うのか。脚質ゆえに東京向きとも見られがちなフレッシュボイスだったが、当時の短い直線の阪神でマイスターともいえる競馬をみせる相性があったのは、この脚の使いどころに起因していたのである。

突き離す時に脚を使い、そのスピードこそ衰えてはいなかったランドヒリュウだが、フレッシュボイスをまた差し返すだけのお釣りは残されていなかった。後の先をとった武豊騎手に軍配は上がった。

59キロを背負ったフレッシュボイスはラスト1Fで11秒5前後の脚を炸裂。現役随一の切れ味で並ばせることなく先行2頭を差しきり、計ったようにゴール板を駆け抜けてみせた。

騎乗馬に恵まれた、勝てる馬に乗せてもらっていると陰口を揶揄されることもあった武豊騎手だったが、2年目となるこの日に見せた騎乗は、まさに天才の名にふさわしい実力を証明するものであった。

また、2着ランドヒリュウの塩村騎手、大いに見せ場をつくった松永幹騎手の姿も目立ち、騎手の世代交代を、新時代の到来も予感させる1戦ともいえただろう。

そして、武豊騎手はこの後、田原騎手同様にスーパークリーク、メジロマックイーン、マーベラスサンデー、エアグルーヴといった名馬で大阪杯を次々と制していくことになる。しかし、田原騎手同様にエリザベス女王杯、有馬記念のローテーションで負けた二冠牝馬ベガに騎乗して大阪杯を1人気で大敗すること(1994年。逃げ切って勝ったのは塩村騎手のネーハイシーザー)になるのは、たまたまの偶然なのか、はたまた運命の必然であったのだろうか。


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